第1部 南無妙法蓮華経とは?

 <歴史的な経過> 
 南妙法蓮華経という言葉そのものについては釈尊が説いたという記録がなく、その他の経典にも説かれていない為、釈尊滅後の造語であると一般的に考察されることが多いです。その造語の経緯の一説では、全国に「 国分尼寺(こくぶんにじ)、正式には法華滅罪之寺(ほっけめつざいのてら)」が奈良時代に全国各地に建てられ、法華経を信奉(しんぽう)していく中で 「南無妙法蓮華経」の言葉が慣例的に生まれたとの説があります。 
 その後の時代については、高木豊氏著「平安時代法華仏教史研究」からの引用で、西暦881年・・・藤原道真が亡き両親へ「吉祥院法華会願文(きちじょういん・ほっけえがもん)」に「南無観世音菩薩(なむかんぜおんぼさつ)、南無妙法蓮華経・・・」と記されている。西暦1007年・・・藤原道長が法華三部経を書写し吉野金峯山(きんぷせん)に埋めた経筒(きょうづつ)に梵字で「南無妙法蓮華経」と籠刻(ろうこく)されている。西暦1012年造立の京都広隆寺(こうりゅうじ)の千手観音像(せんじゅかんのんぞう)の背部と腹部に「南無妙法蓮華経」と墨書きされている。西暦1064年熊本県浄水寺址碑(じょうすいじ・しひ)に「南無妙法蓮花経」と刻まれているなど。
 大聖人様のお生まれ(西暦1222年~1282年)になる何百年も前から私達の祖先は「南無妙法蓮華経」が、ありがたいことであると知っていたことになります。

自由研究

 南無妙法蓮華経を最初に(思想や意義は別として)唱えたのは日蓮大聖人であるようなことが度々見受けられますが、上記の歴史的経緯からみても真実ではないように思われます。

 <日蓮大聖人と南無妙法蓮華経>  
 丸茂龍正氏著「日蓮聖人の題目論」では、南条兵衛七郎殿御書(なんじょうひょうえしちろうどのごしょ・文永元年・43歳)において、

日本国に法華経を読んで学ぶ人は多い。<中略> 但し、法華経のために傷をつけられる人は一人もいない。だから日本国の持経者(じきょうしゃ)は、まだこの経文に符合していない。ただ日蓮一人正しく読み取ったのである。

とあり、その当時の日本に「法華経の持経者」と呼ばれる人々が存在したこと、また法華経の信仰があったことが確認され、大聖人も認識されていることがわかる、と推察しています。
 ただし、丸茂龍正氏は大聖人が、他の宗派と一緒・共存しながら信仰していたものを法華経のみに統一しようとした、あわせて、その当時の法華経の修行の仕方を変えようとしたとも考察しています。→ 第3章にて

 <意味> 
「南無」は「わたくしは帰依します」を意味し「妙法蓮華経」はサンスクリット語の「サッダルマ・プンダリーカ・スートラ」を鳩摩羅什が翻訳した版の法華経の正式な題名であり、それらを続けると「南無妙法蓮華経」は「法華経の教えに帰依をする」という意味になります。

 <南無妙法蓮華経とは何か?> 
「宇宙と生命を貫く根源の法」、「成仏の根本法」、「万人に具わる普遍の法であり、過去世・現在世・未来世という三世を貫く永遠の法」などが見受けられますが、その法自体を客観的に見ることも見せることも出来ません。その他、色々な言葉で言い表す文献・インターネット情報がありますが、科学的にどういうことなのか?と理由や物理的現象を突き止めた人は見受けられませんでした。つまり、現代社会において『南無妙法蓮華経』が一体なんなのか分からないということになります。
 分からないのに・・・。→ 第3章にて