第2部 曼荼羅御本尊について

 <歴史的な経過> 

現存の曼荼羅で、図顕開始が確認されるのは、大聖人が50歳、1271年(文永8年)10月9日以降とみられています(竜の口の法難後、佐渡流罪と決まり、同年10月10日に神奈川県厚木市を出発し、11月1日に佐渡の塚原三昧堂に到着。)
下の写真は初めて図顕されたと思われる御本尊であり、通称、楊枝(ようじ)本尊と呼ばれており、現在は京都立本寺に安置されています。
下の写真は1279年(弘安2年)7月、大聖人が58歳に図顕された御本尊。
日興門流では、1279年(弘安2年)10月12日に出世の本懐として曼荼羅の中でも究境の大曼荼羅と位置づけをし、大御本尊として安置されていますが、次の写真の本尊はその3か月前に図顕された御本尊です。

 なぜ、曼荼羅御本尊を顕されたのか? 
 学者や僧侶、また在家信者、それぞれ考察がまちまちです。その為、たくさんの意見や考えが飛び交わされているのが現状です。数多くの議論がされても、仏法学上での多くの支持を受けた ” 曼荼羅御本尊を顕した理由 ” はありませんでした。一応ここでは、その中のいくつかを紹介いたします。

  • 末法(釈尊滅後正法1000年、像法1000年を過ぎて末法に入るという説。釈尊の入滅を西暦紀元前949年と仮定すると西暦1052年が末法の到来となる)の期を経て、ご自身でも上行菩薩の再誕の自覚され、顕された。
  • 大聖人ご自身がいつ現世に別れを告げるかもしれないと思い巡らせ、その後の未来の導師や僧侶に残せるものを顕された(紙上で顕された意味もあるが、仏像では作成に困難が生じることもあり、庶民にでも手に入りやすい紙幅の曼荼羅とした)。
  • 御書に「私たち自身の心に具わる妙法蓮華経を本尊と尊びあがめて」とはあるが、思索だけで己心の中の本尊を確信するのは難しいので、対象となる曼荼羅御本尊を顕された。
  • 唱題の際、個々で御本尊に代わる対象物が異なっていたため、統一した曼荼羅御本尊を顕された。

 ご安置することによる環境の変化や御本尊による効力は? 
 情報収集しましたが、ご安置すれば何かしら良くなったなどの情報はみあたりませんでした。おそらく、神社仏閣でいただくお守りとは異なることと思います。あくまでも御本尊に向かい、唱題をあげることにより尚一層の『仏力(ぶつりき)』と『法力(法力)』が現れるとみてよいでしょう。

自由研究 ❶

 弘安2年10月12日、大聖人が楠(くすのき)の板に妙法の曼荼羅を認められ、弟子の日法(にっぽう)に彫刻を命じ建立された本尊があり、『経王殿御返事(きょうおうどのごへんじ)』では「日蓮がたましい(魂)をすみ(墨)にそめながしてかきて候(そうろう)ぞ、信じさせ給(たま)え」と仰せになっており、日興門流では広宣流布の暁(あかつき)に本門寺の戒壇に安置されるゆえに本門戒壇の大御本尊と称されています。


上記の大御本尊について

 上記の大(板)御本尊については、大聖人の真筆を参考にしたのは間違いがないと思われるが、大聖人自身が直接手掛けたり、携わったりした本尊ではないと研究した多くの学者がいますが、それは主に下記のような理由があります。

  • 弘安2年建立の御本尊については、大聖人、日興上人の遺文に言及されていないとともに、身延の本堂に安置されていたとするが、六老僧他当時の弟子たちにおいても、そのことに触れた文献や記録がない(日興上人が身延を離山するに際して、身延山から大石が原まで移された文献・記録がない)。
  • 当時の身延山周辺には自生の楠木は存在しなかったという緻密な研究・調査結果も出されている為、後世において運ばれたものと思われる。また、その当時において日蓮一門には高価な漆塗り・金箔加工を施す経済力はなかったこと、そのような技術を有する者が弟子や信徒の中にはいなかったことから板本尊の建立は不可能であったと思われる(当時において、日法は彫刻した功績によって僅か21歳で阿闍梨号を賜ったことになる)。
  • 大聖人から「弘安2年の御本尊が根本」や「弘安2年の御本尊が出世の本懐」とは一言も言及されておらず、御書にも「大御本尊」や「戒壇の御本尊」の言葉は見当たらない。

自由研究 ❷

 日興門流の開眼供養では、本門戒壇の大御本尊の功力と「大事至極」の「極意の相伝」による法主の允可(いんか)によらなければならないと解釈していています。


上記の法主による開眼供養について

 紙や木でも法華経による開眼供養を行うからこそ本尊としての功力を有すると大聖人が御指南されている御書がいくつかあります。この開眼供養については人によって解釈が変わる為、世間的にも今なお、議論は続いています。
 この自由研究では、次の3点から日興門流が示す法主による開眼供養した本尊でなくてもの良いのではないか、と結論を見出しています。

  • 第26世日寛上人の「観心本尊抄文段」では「本尊書写豈化他(あに・けた)に非ずや」と述べていて、日寛上人は本尊書写を仏に成る前の「化他行」であると捉えられており、これにより法主による神秘的な儀式による本尊書写ではないとみることができる。
  • 木絵二像開眼の事(こと)では「法華を心得たる人」が開眼供養することを指南されているが、法華を心得たる人がどのような人物なのかは大聖人は記していない。ただ、大聖人が幾度かの法難に遭っている上で、唯一の人物だけに開眼を託すことは考えづらいことから法主のみとは言い難い。むしろ、上記の化他行からみれば「末法において妙法蓮華経の五字を弘める者」が、ここでいう法華を心得たる人に当たると思う方が妥当であり、ゆえに僧以外でも、その弟子や信徒でも法華経(日蓮仏法)を理解し、折伏などに行じている人であれば、開眼供養は可能であると考えられる。
  • 曼荼羅についての解説や相伝を示された確実な資料は伝わっていない。上記の日興門流の法主による開眼供養については、日興門流以外の他の宗派や学者などからみると、歴史学からすれば確実性がなく、すなわち大聖人滅後、唯授一人の秘伝書として大成したと推測している。

 なお、曼荼羅御本尊に開眼供養が必要か否かは、御書の中に示されている何か所かの ” 開眼供養 ”の解釈によって意見が違っており、今なお、議論がされています。

自由研究の結果

 以上から本門戒壇の大御本尊が最高の本尊というわけではなく、どのような本尊であっても、法華を心得たる人が開眼供養した本尊であれば、同じく力用と功徳があると思われます。ただし、その結果から整合性が取れないことが生じます。

戸田 創価学会 第2代会長の指導(戸田城聖先生講演集)

 ほかの本尊、どこのを拝んでも絶対にだめなのです。弘安2年の10月12日の大御本尊様から出発したものでなければ、法脈が切れてますから、絶対だめなのです。

池田 創価学会 第3代会長の指導(聖教新聞:平成5年9月19日付)

 大聖人の出世の本懐である一閻浮提総与の大御本尊が信心の根本であることは、これからも少しも変わりません。

世界広布新時代の時を迎えた今、将来のために明確に

 平成26年11月8日の聖教新聞において原田会長から「御本尊とは、創価学会が受持の対象として認定した御本尊であり、大謗法の地にある弘安2年の御本尊は受持の対象にはいたしません。世界広布新時代の時を迎えた今、将来のために明確にしておきたいと思います」と述べられています。

 平成3年に日興門流は創価学会を破門し、よって現実に即すれば、弘安2年の本尊は受持の対象に出来なくなったということになりますが、このことに加え、この資料の弘安2年の本尊が大聖人が関与していない本尊との疑念が残されている限り、この自由研究の結論として、弘安2年の本尊と距離を置いた創価学会(創価学会本部 各会議での賛成可決)・原田会長の発表は支持できるものと思われます。

 この結果、客観的な見方をすれば、歴代会長の指導を否定する、もしくは誤指導があったと捉えられるのですが、❶ 現在ほど情報が多く収集できない中、歴史学的検証が出来ず、弘安2年の本尊は大聖人が建立したと受け止めざるを得なかった ❷ 御書根本で信心を行ずる人々に対し、ある場合では敵対、ある場合では疑念や困惑など、それらを防ぐための配慮をした ・・・ 以上の理由から全く見当違いの指導までとはいかず、今後、新たな教義のもと有意義な信心と活動に替えたという解釈する方が妥当と思われます。